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ロゴスとかっぱらい

 昨日のハイデッガーの引用はあらためて読み直すと、読みにくいなあ、と思う。ところが読んでいるときはそうは思えない。なぜだろう。同じことを繰り返し言っているようだが、そのつど言い方が変わっている。これを効率的に用語でまとめることをあまりしていない。有名な存在論的差異にしても、どこにでもこの用語が顔を出すということはなく、これをハイデッガーの隠語にするには少し無理がある気がする。『存在と時間』にでてくる本来性もそうである。本来性を隠語とみたのはアドルノであったが、これもハイデッガー本人、というよりこの人に影響された世間が隠語にしていることを怒っているような感じがあった。

 あるものについての言い換え、語り直しの豊かさ、という芸は案外他の哲学者にはないかもしれない。昨日の引用では、真理が現れたり、消えたりすることをロゴスの重要な働きとして述べている。ロゴスは、ウィキペディアでは「概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味」とあって、次に「キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する」とある。理性的に語ることを意味するのが一般的だが、ハイデッガーアリストテレスに沿って考えるロゴスは、語ること、というものに近いらしい。

 語りだせば、そこには本当とうそが派生する。このうちうそではない真実な部分をロゴス、というのが普通かもしれないが、これは原義から考えると違う。真理を、対象に適合するという妥当性にしてしまったのが勘違いだ、というのがあのおじさんの言い分である。昨日の引用では、挙示的なロゴス、という言い方をしていた。ロゴスは語ることによって、そのものが立ち現れるようにすることなのであった。それは見方をかえれば、真や偽をもたらす可能性や自由ということでもある。

「光あれ」といったから光ができた。でもこの光がほんとうかうそかはとりあえず置いておく。語ればそこに何かが存在することになる、というのを別な本では物在化作用みたいな言い方をしていた。なるほど、これはポストモダンの先駆けではないか、という気がするが、昨日の引用では、これは見事に否定されている。ロゴスが何を生み出すわけではない、とはっきり断言している。そうではなくて、ロゴスはあるものからその可能性を受けとり、その可能性にそって働くのだ。この辺から少しややこしくなる。

 可能性を与えてくれるあるものは、では、対象となる何かか、といえばそれはたぶん違うであろう。対象というのは、主客という図式をあらかじめ前提にした上での話なので、こういう最近の俗説に載ってしまっては元も子もない。そういう話以前のことなのであった。

 ここで気の利いたメタファーや概念語を用いる、というやり方で逃げ道をつくる、というのはあると思うが、このおじさんはあまりそういうことをしない。

 ということで、今朝は樋口一葉の文庫本にもどり、「大つごもり」を読む。奉公人の少女が、主人の財布から金をかっぱらう話だ。これと似た設定のものは、前に明治名作集にもあった。よくある話だったのもしれない。