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罪、また罪…

〜 今村復興相の震災について「東北でよかった」と発言した…との報道について、表現と報道、受け止め方の難しさに思う 〜

おはようございます。

昨日からニュースで、またはネット上でも大きな反響を巻き起こしている 今村雅弘復興相の、東日本大震災の東北での発生でよかった…との発言。この発言を思い、本当にさまざまな思いが私の中でかけめぐります。それはこの今村氏の資質や人間性という前に、本当に人と言葉の関係が実に難しいということです。

最初に私はこのニュースに触れた時、「東北でよかった」と発言した意図について、その表記から、場所が東北だからよかった…つまり東北は必要な場所ではないのでよかった…というかのような、地域ごとに人命の重さのヒエラルキーが存在し、首都圏住民の優越主義のようなものがあるのか?と、今まで自分が認識していなかった緩やかにでも日本人という同じ肌の色と言葉の中にある、多民族国家、移民たちの国のアメリカのような巨大な差別構造があるのか?と思い、背筋が寒くなるようなものを感じました。

しかし報道によく目を向けてみると、今村氏は今月25日、所属する自民党二階派のパーティーで講演した際、東日本大震災の被害に関し「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。首都圏に近かったりすると、莫大(ばくだい)な、甚大な額になった」と述べ、その後、記者団に不適切な発言で謝罪した…との内容でした。

ずばり「東北でよかった」とは言っていない。彼が言いたかったのは首都圏付近だったら、莫大で甚大な損害を被った…ということが最も言いたかったことと思わされます。

もちろん私は首都圏でなく、東北だから被害者数、被害額が少なかった…との今村氏の安堵の公での発言を擁護しようとは思いません。今村氏の支持者でもありません。しかし洗いざらい真実を、私たちのむき出しを探ろうとするとき、この今村氏の発言を、一瞬たりとも私たちが思ったこともない!と言い切れる人がどれだけいたか?

私たちは常に事件の規模の大きさ、事態の切実さを被害額と死者数、被害者数ではかってしまいます。これはマスコミが事態の大きさを無思考にわかりやすく、購読者数、部数、視聴者数に換算するために煽りたてやすいということで基準とするのでしょうが、それに私たちの価値観、感覚も無意識のうちに便乗していることは確かです。たとえば、一人だれかが自らの命を絶ってもニュースにされることはありません。日々、そのような出来事は起こっている…と人々の中では解決されるでしょう。しかし昨日、報道された小田急線に高齢の姉妹と思われる女性2人が手をつないで電車のホームに飛び込んだことは、広く報道されていました。なぜひとりの命と二人の命、扱いが違うのでしょうか?また一人の命、その背景にある影響について追及されることもなく、高齢で姉妹の方ということだけでお二人の痛ましい選択は大きく報道されます。そこには高齢化社会、介護問題、格差社会無縁社会…など現代の問題を人々が身近に感じられるものが浮かぶところが「ニュースにする」価値として判断されるのでしょう。

それでは人の数、被害額、影響だけで私たちは命を語るのでしょうか?「そんなことあるわけないだろ!」「ひとりひとり、人の数だけそれぞれの命と家族、人間関係があるんだ!」とおっしゃられる方々は多いでしょう。しかし私たちは事件事故の重みを裁いていると思います。なぜ一人の命が失われたことからは目を背けられ、数十人がなくなると驚き、数百人、数千人がなくなると絶望するのでしょうか。そこに何の違いがあるのか?目に見える数、規模の大きさに私たちは支配されているということになるのではないのでしょうか?

「首都圏でなくてよかった」それは自らが活動している世界が首都圏であること、すべての中心が首都圏であり何よりも優先される!ことが今村氏は言いたかったわけで、見出しのために短くされた「東北でよかった」という、まるで東北地方の被災を喜ぶかのような見出しでは全く本質が伝わらないし、誤ったものだと思います。はたしてこの見出しから、どれだけの方々が今村氏は、東北の被災を喜んでいるような錯覚を覚えた方がいるでしょうか?

話は逸れてしまったのですが、「首都圏でなくてよかった」という意図の言葉の裏にある、莫大な数に換算される損失で、事態の重みを考えることは、はたして今村氏だけの問題なのでしょうか?もちろん国家における責任者として、とくに復興に関する責任ある政治家として、わきまえのないTPO( Time・時間、Place・場所、Occasion・場合)の今村氏はそのポジションにふさわしくないのは間違いはないでしょう。しかし数と規模で、人の苦しみの重みを測ろうとするのは、彼だけではない。だれ一人として責められることはできないと思うのです。または、数や規模だけで人の命のおもみを測ってしまう私たちの残酷さを、私たちは今村氏に課しているということなのでしょうか?

どんなことをしても、自らの生活を優先してしまう私たち。そして広く大きく、数の嵩みに目をとらわれていく私たち。そして自らの弱さ、目を背けたいと思う部分を、あらわした人間に対する、自らの罪の他者への転嫁。だれ一人、自らを振り返るならば今村氏を本質的に責めることはできないとも思います。

隠れ被災地と呼ばれた茨城県の海岸沿いで、私も周囲の屋根が崩れ、地面が波打ち、壁や足元に亀裂が入っていき、目前の臨海工業地帯が爆発する現場を目撃しました。その後、被った経済的被害の大きさから自らの命を絶ってしまった方も近くにいらっしゃいます。そんな現場にいたにもかかわらず私の意識の中には、今の生活が精いっぱいで(これも言い訳でしょうが)、あの6年前は遠い記憶になりつつあります。今村氏は私自身であるかもしれません。

本当に罪、罪、罪だらけの世界です。発言する罪、責める罪、目を背ける罪。だれかを十字架につけようとする罪。まず今日も自分自身を疑い、責めるところからはじめていきたいと思います。

Judas Priest 〜 Sinner

https://www.youtube.com/watch?v=zC8qK-WDALQ

今村復興相発言で事実上の更迭